アウグスティヌス『告白』から見える人間の本質~超哲学入門一歩前~

はじめに
本来人間は弱いものです。当然引きこもりの人も出てきます。それは今に始まったわけではありません。なぜなら、神のように人間は完ぺきではないからです。
かの大司教アウグスティヌスでさえ次のような言葉を残しているのです。
私は弱い人間です。自分の力では何一つ善いことができません。意志することもできません。それどころか、何が善であるかも、知ることもできません。どうかあわれんで、私を照らしてください、みちびいてください。
アウグスティヌスの名著『告白』は単なる自分の真実を告白するだけではありませんでした。何のために自分は存在するのかをつき詰めて考えたのです。
それによると、単に人間はこの世に存在するだけでなく、「在らしめられて在る」ということに行きつきます。在らしめられるとは何らかの使命を帯びているということが非常に重要です。
しかも、もっと重要なのは、「自分のみじめさを知れ」という点です。それも、地獄に落ちなければ見えない世界があるとまでいうのです。
徹底的に打ちのめされた「ヨブ」のごとき目に合わなければ、本当の存在の意味が見えません。なので、最も弱い自分に行きつくまで悟らなければ、本当の存在する意味が分からないのです。
ペラギウス論争
今から2千年近く前の時代。ローマが最も栄え、あらゆる人がローマに集まっていたころの話です。ペラギウスもブリタニアからローマに来た修道僧です。
アウグスティヌスもカルタゴからローマに行きつき、大司教にまで上り詰め、ペラギウスも彼を慕ってローマに来ました。
この論争の発端は、『告白』から来ています。すべて人間は神にゆだねていいのか、主体性は、道徳的義務はどこに行ったのかにペラギウスはこだわりました。
つまり、人間の自由意思はあるのかということです。アウグスティヌスも罪の原因は自由意思にあるといっているので、この件に関しては同じことをいっています。
ではなぜ、2人の間に溝があるのでしょう。悪はあくまでも人間の自由意志からであるが、善は神の意志が働いているのだとアウグスティヌスは考えます。
さらにアウグスティヌスの重要な点は、人間は無から造られたものである限り、放っておけば無に傾くために、滅びを意志するというのです。なので、罪の主体は人間なのです。
善の意志は神の哀れみ
では、善の意志はどこから来るのでしょう。意志は悪ばかりでなく善をも意志するのではないかとペラギウスは考えます。しかし、アウグスティヌスは、善は神の哀れみから来ているといいます。
あくまでの罪の主体は人間であり、そこから逃れることはできません。なので、自分の力ではいかなる善も意志出来ず、神のよって意志せしめられているのです。
徹底的に根源的に神の意志が先立ちます。それだけ人間は弱いということです。アウグスティヌスの根底に流れているのは「人間のみじめさ」です。
みじめさを知ることで、神の哀れみが初めて理解できるというのです。しかし、懺悔はそう簡単にだれでもできるものではありません。自分の過ちを素直に認めることほど苦しいことはないからです。
自らの心に問いかけてみてください。弱さをさらけ出すとは、罪を認めるとは相当の覚悟がいります。なぜなら、人間は自分の罪を認めたくないからです。それだけ欲は頑なで、こころは閉ざされているのです。
それをこじ開けるには、自らの自由意志の力では到底できるものではありません。なぜなら、人間はどこまでいっても「いいカッコしい」だからです。
在らしめて在るもの
そのためには、自ら「無からの者」であることを自覚しなければなりません。人間は、無から無へと帰る者です。ただ、それだけではなく、「在らしめられて在るもの」ということが重要です。
悪をも善をも為す人間は、罪を告白するだけでは足りません。同時に善も告白しなければならない。ただ善は、誇張であっては単なる自慢になり下がります。そうでなく、善は神の力をかりている以上、神からの恵みに対して感謝を告白せねばならないのです。
それが「在らしめられて在る者」の責任です。したがって、善は決して自分の力でないことを肝に銘じなければならず、もし自分の力に頼れば、傲慢の何物でもないからなのです。
しかもなぜ「みじめさ」を理解しなければならないのでしょう。それには、自分の弱さを知らなければなりません。人間の弱さをさらけ出すことで、いかに自分は傲慢であるかを自覚することになるのです。
ヨブをみてください。傲慢を自覚するまで徹底的に神は天罰を与え続けています。何が傲慢かを理解することは人間にはできないかもしれません。それだけ、傲慢から脱出することは困難だからです。
なぜなら、生きること自体が傲慢そのものだからです。人間の欲求の最たるものが食欲です。その食欲はいやでも力によって他者から奪い取るという力学が働きます。
なので生きること自体に、常に傲慢さを自制することが問われるのです。そのためには、謙虚さと感謝を忘れてはなりません。自分の力に頼るものほど傲慢になるからです。
おわりに
アウグスティヌスの『告白』を通して、善と悪について考えてみました。人はいかに自分は無知で傲慢であるかを知りません。と同時に、「みじめな」自分に対して、なお、見捨てずに生かされている自分がいることです。
告白することは、自分のみじめさをさらけ出すことだけではありません。なので、そう簡単にできるものではないのです。なぜなら、人間のみにくさは誰でも持っているにもかかわらず、自分から素直に認める者はいないからです。
したがって、この告白は弁明でも誇るためでもありません。ではなぜアウグスティヌスは『告白』を著したのか。それは、人間がいかに「みじめ」なものなのかを知ってもらうためだったのだろうと想像できます。
ところで、だれでもどんな本を書くにも、その行為自体が、真実を書かなければならない宿命を背負っています。何と人間はみじめで傲慢であるかを書く作業でもあるのです。しかし、現実はそのような著書がどれほどあるのでしょう。
ものを書くということは、自分の命を削ってまでも自分の真実をさらけ出す作業です。つまり、神の前に向かって「みじめさ」をさらけ出すことでもあるのです。
たとえば、裁判の宣誓では、神に誓って嘘、偽りがないかを誓うものです。アウグスティヌスの『告白』もまた神に向かっての宣誓だったのです。
これほどまでにみじめな自分でも、なお、生かされて在ることに感謝していることが重要なのです。
「tolle Legol」(聖書を取って読みなさい)とどこからともなく聞こえた神の声は、「一者そのものになり一者を救え」とアウグスティヌスは理解しました。それは最も恵まれないものの立場に立って行動せよということなのです。
モジリアニ「おさげ髪の少女」から垣間見える人間の本質~超哲学入門一歩前~

はじめに
1919年場所はニース(南仏)、第一次大戦直後のモジリアニの作品である。彼が亡くなる1年前、皮肉にも最も幸福な時期であった。
当時のフランスは180万人もの戦死者を出している。その中には子供たちもいた。戦争で最も犠牲になるのが実は子供たちです。パリ市内には多くの孤児や浮浪児がいたのです。
当然、避暑地であるニースにも、疎開先として少年少女が沢山いたに違いありません。食糧不足や生活困窮が深刻化し、一部の子供たちは疎開したり、孤児になったりしました。
おそらくそうしたニースに暮らす子供たち達をモデルとして描いた一人が「おさげ髪の少女」だったのでしょう。
当時のモジリアニ自身は、体はボロボロで、パリ時代に酒と薬物に溺れ、肺結核は末期の状態で、死を覚悟してニースにやってきているのです。
晩年の2年間は、彼にとっては天国だったに違いありません。というのも、駆け落ち同然で妻ジャンヌと同棲し、子どもに恵まれたのです。
少女の絵を見ると、瞳が描かれている数少ない作品で、頬は赤く健康的で、非常に生命感を感じる絵は今までのタッチと随分違っています。
それだけ父親になった幸せと生きるよろこびにあふれ躍動感さえ感じます。今までの闇の世界をさまよっていたことを考えると最後の一条の光だったのではないでしょうか。
地獄は一定すみかぞかし
地獄はいったいどこにあるのでしょう。大地の底(タルタロス)でしょうか。ギリシャ時代にはそう考えられていました。タルタロスはギリシャ語で地獄の意味だからです。
しかし、本当は今、生きているこの世界こそが地獄かもしれません。当然天国も、遥か宇宙の果てではなく、今、生きている世界ではないでしょうか。
そういう意味では、この現実世界の中で、天国も地獄も味わって生きているということになります。そうです。実は生きるということ自体が地獄なのです。
奇しくも、親鸞聖人が言った「地獄は一定すみかぞかし」なのです。つまり、強欲の中で生きている人間は、地獄を味わうことになるのです。しかしたまには天国も味わっているかもしれません。
ところで、モジリアニの人生を振り返ってみると、まさに地獄の中を彷徨っているようにも見えます。肺結核に侵され、その苦しみを紛らわせるかのように大量の飲酒と薬物におぼれ、35歳という若さで結核性髄膜炎で死亡する。
貧困と生来患っていた肺結核が重なり、地獄のような生活を通して絵画に没頭する様は、まるで「地獄は一定すみか」だったに違いありません。
マリアの出現
モジリアニの晩年の死ぬ前の2年間は、彼にとっては天国だったのでしょう。なぜなら、ジャンヌ・エピュテルヌが現れ、駆け落ち同然のように同棲したからにほかなりません。
パリの売れない貧乏画家は、この時期は、今までも暗い絵から、明るい絵が多くなります。しかも、市井の貧しい少年少女をモデルとした肖像画を描くようになります。
中でもこの「おさげ髪の少女」は目玉のない絵が多い中でも数少ない目玉まで描いたものになっています。ちょうどそのころ、女の子に恵まれ、幸福感が絵に現れているようです。
無表情の作品が多い中でも、この絵はかすかな微笑さえ感じるものとなっています。青い目も血色の良い頬も、なぜか生命力が漂っているようにも見えます。
この最後の晩年は、彼にとってはジャンヌというマリアが現れたに違いないのです。彼女は美術を志し、モデルをしながら、絵を描いていただけあってセンスもあったようです。
その影響は、モジリアニの絵に多分に影響を与えていたに違いないのです。死後の絵画のほとんどはこの晩年に集中しており、世界的にも高く評価されています。
現在この絵は、名古屋市美術館でみることができます。現在その価値は80億円ともいわれています。
一性の経験
モジリアニが最後の晩年を過ごした2年間は、まさに天国だったに違いありません。最愛の妻ジャンヌとニース(南仏)という避暑地で過ごせたことは「一性の経験」だったのです。
他者と一体となるとき、そこに愛が生まれ、神と一体となっているということです。少し大げさかもしれませんが、他者との一体となる時こそ自然や宇宙との一体感を感じ、神を経験しているといるということです。
どんな人でも、誰かある人と愛の関係に入ったときに、そこに神が出現し一体となることができるのです。それが「一性の経験」ということです。
モジリアニが自己中心性という孤立から抜け出し、他者と一つになることは自然と一つになることであり、万物と一つになることです。
なので、奇跡が起こるのです。すでに彼は、死を覚悟し、自己中心性は崩壊していたのでしょう。「おさげ髪の少女」は田舎のどこにでもいる少女をモデルとしているのですが、そこに神を見たに違いありません。
どうです。今までの彼の描いた絵とは、まったく違った雰囲気を醸し出していませんか。とにかく明るい色調と、青い目を描いていることは今までの絵と違います。頬も口も赤く描かれていることに、今の喜びが伝わってくるようです。
おわりに
最晩年、といってもまだ30代前半の若さです。すでに死を覚悟して南仏の避暑地、疎開先でもあり、そこで2年余りを過ごしています。
しかし、、第一次大戦の影響を多分に残し、貧困にあえぐ少年少女を前にして、なすすべもありません。せめて、モデルとなって、少しでも生活の足しにと考えたのかもしれません。
「おさげ髪の少女」はまだ幼さが残る顔立ちと、何とも言えない愛らしさが漂っています。それは作者の心の繁栄だったのです。病魔と貧困に満ちていた彼は、そのモデルに神を見たに違いありません。
そこには、何の衒いもなく、ただ無我夢中で描いたに違いありません。なんだか、初めて自分に子どもが生まれ、その子の将来の姿を重ねたのでしょう。その願いも、絵の中に漂っているように見えるから不思議です。
モジリアニは、病魔と酒と麻薬におぼれ、言って見ればふしだらな生涯だったのですが、一方で、きわめて人間的な自由を謳歌した生涯だったとも言えます。
いうなれば、子どもがそのまま大人になったような、疑うことを知らず、純粋でいて、魔法のような感動と驚きに満ち溢れた人生だったに違いありません。アインシュタインは芸術家について次のようにコメントを残しています。
わたしたちが体験しうる最も美しいものとは、 神秘です。 これが 真の芸術と 科学の 源となります。 これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、死んだも同然です。
ラ・トゥール『ヨブとその妻』を通しての人間の本質~超哲学入門一歩前~

はじめに
この絵には別題がある。『妻に嘲笑されるヨブ」となっている。実はヨブ記のヨブは、妻子は殺され、家財産までもすべて豪族に奪われている。
なので、ここで妻が登場するのはおかしい。しかし、ラ・トゥールがあえて描いた意味は、亡霊となった妻を登場させ、「それでもあなたは生きるのですか」と確かめているのではないかと推察する。
「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに」とヨブの妻が言う。それに対してヨブは「おまえの言うことは愚かな女の誰かれが言いそうなことだ。われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないのか」と。
ただ、ヨブがそこに至るまでには、かなりの紆余曲折がある。『ヨブ記』の内容のほとんどは、そのことに費やされているといっても過言ではない。
なので、神を呪い、もだえ苦しみ、さらに多くの試練を受けるのである。自分が正しく全うな人生を送ってきたにもかかわらず、なぜ自分だけこれほどまでに苦しまなければならないのだ。
しかし、このヨブの試練は、人間の傲慢さゆえの試練である。人間ならだれでも起こりえることだ。「なぜ自分だけが」という考えこそが傲慢そのものなのである。
それがわかるまでは艱難辛苦を味わうことになる。『ヨブ記』は旧約聖書の中に収められたものであるが、いろいろな本が出ているので、読みやすいものから読んでみる価値は十分にある。
ちなみに、わたしは、岩波新書と岩波文庫の2冊を持っている。どちらもそれほど難しくなく、物語風に読める。別に聖書に興味がなくても、キリスト教に何ら関りがなくても十分に楽しめる。
なぜなら、どのような人生を歩もうとも、人生は大なり小なり、銀杏甚句を味わわなければならないように出来ているからだ。それがわかるには、苦労を重ねた境地に達しなければならないのかもしれない。
目次
アンパンマンから考える存在することの意味~超哲学入門一歩前~

はじめに
アンパンマンはもう誰もが知っているアニメですが、その歌の歌詞の中にこんな文句が登場します。
「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ」というフレーズです。
人は、何のために生まれ、何をして生きればいいんでしょう。そう簡単に答えは見つからないのではないでしょうか。
それこそ哲学的問題なんです。ところで、人は何のために生まれたのでしょう。実は、自分の意志で生まれたわけではないんです。
ここから哲学(存在論)の話に入ります。アウグスティヌス(大司教)は次のように言っています。
自分は無から造られた。神が自分を存在せしめてくださらないならば、自分は無の内に消えてゆく。罪とは無へのかたむきであり、罪の告白において、私は〈無からのもの〉であることを告白するのである。しかし自分は、無ではない。〈無からのもの〉であるとともに、神によって〈在あらしめられているもの〉である。
「無からのもの」とは、何もないところから突然生まれてきたといっているのです。しかし、ただ単にこの世に投げ出されたものではなく、「在らしめられたもの」だということが非常に重要なんです。
なので、だれかに在らしめられているということだけで、何か誇りのようなものを感じませんか。
ではなぜ、在らしめられているのでしょう。突き詰めて考えると、あなたは誰かのために、何かのために、何らかの使命をもってこの世に在らしめられたということになります。
- はじめに
- 在らしめられて在るとは
- 死にさらされた極限の弱者
- 私の善意志か応答しない
- おわりに
ブリューゲル『バベルの塔』から垣間見る人間の本質=超哲学入門一歩前~

はじめに
『バベルの塔』は16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの作品です。この作品は旧約聖書「創世記」にあるバベルの塔から来ています。
その内容は人間の自らの力(アレテー)を信じたばかりに、天に達するまでの、建造物を作ったとされています。
しかし人間の傲慢さが神の怒りに触れ、巨大建造物は中止を余儀なくされます。
天にも届く神の領域まで手を伸ばす等を建設しようとして、崩れてしまったという、空想的で実現不可能な建物なのです。
アレテーに生きる生き方とは、アリストテレスの唱えた生き方です。それは、現代的に言えば、自己実現ということになります。
そもそも幸福になるためには、各人に備わった固有の能力を発揮した時に成立するといわれています。それがアレテーに生きる生き方です。
人間には、生まれ持った能力があり、当然、そこに能力の差が生まれます。能力の高い者が能力の低い者を支配するという構図が生まれるのです。
『バベルの塔』は、まさに人間の能力の限界を目指して昇りつめた先のできごとだったのです。神に近ずこうと天を目指した人間は、意思疎通のとれないもの同士がちりじりに去っていくという現実の物語だったのです。
目次
ラ・トゥール『大工のヨセフ』に見る光の本質~超哲学入門一歩前~

はじめに
この絵画はジョルジュ・ド・ラ・ツゥール(Georges de La Tour, 1593-1652)が描いた『大工のヨセフ』(Saint Joseph charpentier1642年)です。光の効果を追求した画家として有名です。
私たちを含めた物体は、物が光にあたって、物体が光ることで初めてそのものが何かを理解できます。なので、物そのものが光るわけではありません。
神の現われとは、神自体が光るわけではなく、光に照らされたものが働きの担い手となるのです。まさにこの絵はその働きを具現化しています。
ろうそくの光は、暗闇を照らし、幼子イエスの顔を見事に写し出しています。特にろうそくを持った手は光に透けているにもかかわらず、光を通して指までも光っているのです。
ところで、神は宇宙のどこを探しても存在しません。しかし、光が照らされたものは、まるでそれ自体として光り輝いているように見えます。それが神の働きであり、愛の働きなおです。
アリストテレスは、この世は神の働きの場であるといっています。なぜなら、この自然世界は、神によって創られたからです。
しかも自然は自分自身のうちに自分の在り方を決める根拠(アルケー)を持っているといいます。たとえば、麦の種を土に蒔けば自発的に成長し、実をつけます。このような自然の働きも神の働きです。
ケニントン『孤児たち』に見る人間の本質~超哲学入門一歩前~

はじめに
トーマス・ベンジャミン・ケニントン(thomas B.Kennington1856~1916)の絵画『孤児たち』を通して人間の本質について考えていきます。
彼は、イギリスの貧困層の生活実態を見る者の感情を揺さぶる形で描いています。ストリートチルドレンを題材にした絵画は、スペイン画家ムリーリョの影響を多分に受けていたといわれています。
ケニントンの作品は、社会から見過ごされている人々に焦点を当て、疎外された人々や虐げられた人々を題材にあえて選んだようです。
虐げられた人々は、見る者の感情を揺さぶります。なぜなら、弱い者が訴えかける見えない力を感じるからではないでしょうか。逆に、強い者は力に頼り支配するという力学が働きます。なので、そのような人に愛を感じる人はいません。
聖書の中の教えに最も無意味なものが最も偉大であると次のように言っています。
だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。
子どもは社会の中で肉体的にも、社会的な地位の上でも、最も弱い存在、最も小さい存在です。ましてや、400年前の浮浪児たちは最も弱い存在として、虐げられ、差別され、路頭に迷って生活していたのです。
中には奴隷とともに働くものや、路上で命乞いをしてその日暮らしをするものなど、街には多くの浮浪児があふれていました。
当時の浮浪児は、社会の中で最も無意味な者(最も小さい者)とされていたのです。社会階層の最底辺にいる人、子どもはそういう人たちの象徴なのです。
神は子供のように低くならなければ天の国にはいれないといっています。人を疑うことを知らない浮浪児は、開けっぴろげ、エネルギーはあふれんばかり。
目次
- はじめに
- 執着からの解放
- 神の中で生きている
- 贈り物としての存在
- おわりに




